春奈のリターンマッチ:第5章

 

                               作: しろいるか

 

 


あれから6年の歳月が流れて行った。

春奈は23才になって今では自分がクローン体への意識移転を受けた大学病院で看護婦として働いている。

高校を卒業して看護学校に進学し、色々な基礎的な知識を学んで行った。

そして、病院に勤めるようになってからも先輩の看護婦・医師みんな明るく元気な春奈を可愛がってくれる。

様々な人々の手助けによって看護婦としての技量も習熟して行った。

今では手術室で医療器具の操作を任されるようになった。

窓から差し込む明るい日差しを浴びて春奈は特殊形成外科の扉をノックした。

「失礼しま〜す。」 入っていくと自分を再生させてくれたクローン技術の産みの親、江崎教授が机に座っていた。

事故で死ぬ所を救ってくれた教授にはいつも感謝の気持ちを持ち続けている。

「教授、カルテをお持ちしました。」 そう言ってカルテを渡した。

「おぉ〜、朝倉さんか!久しぶりだな。」 教授は机の上の書類から目を上げた。

教授は半年に渡るアメリカでの共同研究を終えて1週間前に帰国した。

各国の研究者の意見を取りまとめてクローン体の国際的なルールを定めて来た。

「はい、教授もお元気そうですね。 」 春奈も微笑んだ。

「どうだね、知らない仲でもないしすこし話して行きたまえ。 そこに掛けなさい。」

「でも、仕事がありますからぁ。」 教授の言葉に戸惑いながら返事をした。

「私の所で書類の整理を頼まれた事にしとけばいいよ。 なんだったら婦長に言っとこうかな?。」

「いえ、わかりました。」 春奈はそう言ってソファーに腰掛けた。

江崎教授も春奈の目の前の椅子に腰掛けてにこやかに微笑んだ。 クローン技術の権威として名高い人物。

知らない仲ではないが病院の中ではけじめは守らないといけないと思っている。

大学病院ではこのようにして看護婦は礼儀その他を躾けられていく。

「本当に綺麗になったね。 君の移植を行ったのが昨日のように思い出されるよ。」

「ありがとうございます。 教授のおかげで新しい人生を歩んでいます。」

「すこし堅苦しいんじゃないかね。 あのやんちゃな春奈ちゃんに戻って話して欲しいな。」

「でも、婦長さんって礼儀とか言葉遣いに関してはとってもうるさいんですよ。」

「そうだな!彼女はすこし固すぎるからね。」 教授は可笑しそうに笑った。

春奈はその笑い声を聞いて緊張がほぐれていった。

「ところでその後、彼とはどうなったのかな?。」

教授と父の雅昭は春奈の事故の後に仲がよくなって今では趣味のゴルフや釣りも一緒にやっており、

裕輔もそれに無理やり付き合わされた事は1度や2度ではなかった。

その度にデートをすっぽかされて怒って雅昭に文句を言った事もある。

そのため教授も裕輔の事は知っており、性格のいい好青年だと思って2人の恋が成就するのを陰ながら応援していた。

「はい、おかげさまで来月の25日に結婚式を挙げることになりました。」

「それはよかったね。 私もぜひ出席させて貰いたいものだ。」

「えぇ、招待状はここ2・3日の内にお送りしますわ。 江崎のおじ様に送らないと父に叱られますよ。」

本当は教授に結婚式の媒酌をお願いしようと思ったが、アメリカに長期出張されていたので、

裕輔の会社の社長にお願いをした。

「おっ、やっと普段の春奈ちゃんに戻ったね。」

「もう、おじ様ったらぁ冗談ばかり言って!私困りますぅ。 私は病院では教授として接しようと思ってるんですよ。

こんな所を婦長さんに見つかったらまた怒られちゃいます。」

「わかってるよ、この部屋の中だけだよ。 この部屋を出たら1人の看護婦として接するから安心したまえ。」

「でも、最近男性のクローン体の処置がされてますけどあれってどうなってるんですか?。

私の場合は性プロセスの基本が女性型だと言われて女の子にさせられちゃったんですよ。」

「うん、最近になってやっと出来るようになった。 出来るようになった最大の理由は何だと思うかね。」

「わかりませんわ。 意地悪しないで教えてください。」

「それはねアメリカでの日米欧の共同研究の遺伝子解析が終わって遺伝子情報がわかった事が大きい。

性プロセスの情報もどの部位にあるかが判ったからその部分の塩基配列を変えればいい。

春奈ちゃんも今だったら男性に出来たんだがあの時は女性にしか出来なかったんだよ。」

「もう、いいです。 私はこの女性の体を気に入ってるんですよ♪。 ご心配には及びませんわ。」

「それを聞いて安心したよ。」

「あっ、もうこんな時間。 おじ様、今日は楽しかったですわ。」 春奈は満面の笑みを教授に向けた。

「あぁ、引き止めて悪かったね。 頑張るんだよ。」

「ありがとうございます。 では失礼します。」

春奈と裕輔は10月25日に麻布の教会で結婚式を上げた。

たくさんの友人、病院の同僚、裕輔の会社の人々。 

春奈は人気者でその結婚を祝うために大勢の人々が集まって来た。 その人々に囲まれた2人は幸せだった。

「パパ、色々とありがとうね。」

「春奈、幸せになるんだよ。」

純白のウエディングドレスに身を包んで雅昭に導かれながらヴァージンロードを進む。

教会のパイプオルガンから結婚行進曲が流れて来た。

ワーグナーやメンデルスゾーンのような豪華華麗な趣のある曲ではなくトイヴォ・クーラの曲を選んだ。

フィンランドの作曲家クーラの曲は素朴で慎ましく憂いと自愛に包まれた優しさに満ち溢れた曲で、

花びらのように色彩を帯びて2人を祝福しているように奏でられた。

春奈はうっとりとした気分になりながら途中で待ってる裕輔の前で止まった。

2人は自分達の愛を確かめ合うように目を見つめてゆっくりと神父様の前に進む。

友華と恵理の2人が春奈のためにブライスメイトを努めて先導してくれた。

静寂な空気の中を神父様の声が聞こえてくる。 神聖で厳かな気持ちで永遠の愛を誓い合う。

女の子になって憧れを持っていた結婚の瞬間。 

これから生涯をかけて愛を育みその愛を表現して行く。 その想いを胸に2人は指輪を交換していった。

結婚式が終わって大勢の人々に見送られながら香港経由でオーストラリアに旅立った。

2日ほど香港に滞在してビクトリアピークから100万ドルの夜景を見て将来の夢を語り合い、

飲茶も食べて中環(セントラル)ではショッピングを楽しんだ。

オーストラリアでは西部のバースや南部のアデレードを回って、水上スキーやトローリングにも挑戦した。

もちろんコアラやカンガルーも見たし、シドニーでは舅の裕康の友人アンドリュー・スミス氏から食事に招待された。

その席で2人は秘蔵の50年物のポートワインをご馳走になった。

お酒の飲めない春奈は儀礼的に口を付けただけだったが、裕輔はうまいと言って何杯もお代わりをした。

ディナーのオーストラリア牛のステーキも美味しかった。 フルーツも豊富に用意してあった。

食後、春奈は奥さんのレイチェルさんの片づけを手伝った。

スミスさんとレイチェルさんには長い年月愛を育て上げたと言う自信に充ちた風格が醸し出されていた。

スミス家は本当に仲のいい明るい家庭で訪れた人々に安らぎを感じさせる雰囲気がある。

私もこんな家庭を作りたいなぁ。」 紅茶とレイチェルさん手作りのケーキを楽しみながらひと時を過ごす。

スミスさんから泊まって行くように進められたが御礼を言ってホテルに帰った。

ホテルで見た夜空は澄み切っていて満天の星が宝石のように散りばめられている。

春奈は南十字星にこれからの幸せを祈った。

手の中にはレイチェルさんから贈られたアンチィクのロザリオが収められていた。

開いてみると黄金で彫金されたギリシャ神話の英雄でトロイ戦争で活躍したオデュッセウスの妻で

美女として有名なペネロペイアが描かれている。 幸福を願って代々母から娘に贈るものを特別に譲られたのだ。

楽しい新婚旅行を終えて2人は帰国した。

帰国してお世話になった人々にお礼の挨拶をして過ごしている間に慌しく年を越して行った。

2人は裕輔の実家でお正月を過ごした。 舅の裕康や姑の園子は春奈を可愛がってくれる。

野村の家は裕輔1人で他に兄弟はいない。 嫁となった春奈の事は由紀夫だった時を含めて幼い時から知っている。

事故で女の子に変わってガールフレンドとして付き合い出し愛を育んで結婚した。

春奈はちょくちょくこの家に出入りしていて高校2年のクリスマスイブにヴァージンを喪ったのも裕輔の部屋だった。

そんな春奈を嫁としてではなく実の娘のように温かく受け入れてくれた。

「春奈さん、こちらに来なさい。」 園子が優しく春奈を呼んだ。

「お義母様、何でしょうか?。」

「これは私の娘時代の物だけど着てみない?。」 

そう言って箪笥から着物を取り出して畳の上に広げた。

見てみると中には朱色の下地に白や赤の牡丹と紅梅白梅が描かれた振袖が入っていた。

「私が着てもいいのですか?。」

「いいのよ。 私は本当はもう1人娘が欲しかったの。 でも。裕輔しか授からなかったの。

だからあなたには嫁としてではなく娘として接して上げたいの。 あなたもそのつもりで私に甘えてね。

この着物は娘が出来たら着せようと取って置いた物なの。 だからあなたに着て欲しいのよ。」

「お義母様、ありがとうございます。」

春奈は園子に手伝って貰って振袖に着替えた。

「すてきねぇ〜似合っているわよ。 裕輔とお父さんにも見せてあげましょうね。」

2人は連れ立って座敷に入って行くと裕輔と裕康がすでにお酒を飲んでいた。

「おぉ〜!春奈さん綺麗だなぁ。」

「春奈、似合っていて綺麗だよ。」

「ありがとう、嬉しいわ。」 春奈ははにかみながら答えた。

「お父さん、そんなにみつめないでもいいでしょう。 でも、若い娘が家の中に居るのって華やかでいいわね。」

「あぁ、本当に娘が出来たようで嬉しいよ。 春奈さん私にお酌してくれないか?。」

「は〜い!お義父様。 おひとついかがですか!。」

「ありがとう。 う〜ん、うまい!。」

「春奈さんあなたも飲んだらどうなの?。」

「でも、私は飲めないんですよ。」

「お正月ぐらいいいでしょう。 酔ったら裕輔に介抱させればいいのよ。 裕輔ぇ!それぐらい出来るわね。」

「はいはい、介抱ぐらい幾らでもしますよ。 春奈、おふくろもああ言ってるから一杯ぐらいいいだろう?。」

「じゃ〜本当に一杯だけよ。」

「あぁ、わかってるよ。」 春奈は手に持った杯に注がれたお酒をゆっくりと飲み干した。

「おっ、いけるじゃ〜ないか。 さあぁ!もう一杯いこう。」

「お父さん!そんなに無理を言うと嫌われるわよ。 注ぐんだったら私に注いでくださいよ。」

「わかったよ!せっかく出来た娘に嫌われたくないからなぁ。 裕輔、春奈さんを大事にするんだぞ。」

「わかっているよ!春奈の事は任せてくれ。」

「春奈さん、裕輔が粗末にしたらいつでも言って来なさい。 きついお灸を据えてやるからな。」

「親父には適わないな。 これじゃあ春奈の言う事ばかり聞きそうだな?。」

「あたりまえだ!父親は娘の言う事を聞くもんだ。 息子なんて居ても居なくてもいいくらいだ。」

「裕輔、お父さんも私も春奈さんの事を娘みたいに思ってるの。 泣かしたら承知しないわよ。」

「わかったよ。 2人も味方が居たんじゃかなわないからな。 大事にするから安心してくれ。」

「お義父様、お義母様、ありがとうございます。 裕輔さんと2人で明るい家庭を築きますわ。 ご安心ください。」

裕輔に寄り添って微笑んでいる姿は輝いて見えた。

次の日は実家に顔を見せに帰って楽しいお正月を過ごした。

月日が過ぎるのは早いものだ。 あっという間に数ヶ月が過ぎって行った。

春奈は明るい家庭を築こうと努力した。 そんな春奈を裕輔はやさしく支えてくれた。

家事も積極的に協力してくれて仕事を持っている春奈が疲れていると代わって炊事もしてくれた。

ドライブや外でお食事をして買い物も一緒に行って新婚生活を楽しんだ。

そしてお互いの親に対しても心遣いを忘れた事はなかった。

たまに実家に元気な顔を覗かせるとその度に子供はまだかと言われた。

せっかちだなぁ。 そんなにすぐ出来るはずがないのに。」

家庭には笑いが絶えず幸せだった。

「春奈行ってくるよ。」

「裕輔ぇ〜!早く帰ってきてね。 美味しいものを作って待ってるわ。」

「あぁ、早く帰るよ。」 そんな会話で1日が始まって行く。

春奈は裕輔を信頼して甘えて頼りきっていた。 そしてこの幸せが永遠に続くものと信じていた。

そんな6月のある日裕輔は夜9時になっても帰ってこなかった。

いつもだったら7時半ぐらいには帰って来るのに今日に限って帰って来ない。

そして、遅くなる時は必ず電話があったのにその電話すらかかって来ない。

何してるのかなぁ?。 電話ぐらいして呉れてもいいじゃないの。」 春奈は少し苛立っていた。

せっかく用意した食事も冷めて行く。 時計の針は刻々時を重ねて10時が過ぎ11時になって行った。

だれか会社の人につかまって付き合わされてるのかなぁ?。」 不安になったが裕輔の帰りを待ち続けた。

突然携帯電話が鳴った。 出て見ると友華からだった。

「友華!久しぶりだねぇ・・・・・・」

孤独から開放されたようにほっとして話し掛けると友華の怒鳴り声が聞こえてくる。

「何のんきな事を言ってるの!。 テレビ見てないの?。 裕輔さんが事故にあって亡くなってって言ってるわよ!。」

「えぇ〜!そんなァ嘘でしょ〜〜?。」 顔から血の気が引いていく。

裕輔が死んだなんて信じられない。 いや信じたくなかった。

朝には笑顔で出かけたのに何かの間違いよ。 テレビが間違って報道したのよって思っていたら電話が鳴った。

出て見ると警察からで、事故の状況説明と身元確認の為に病院に来て欲しいと言う電話だった。

今日はお昼頃から雨が降り出していた。 裕輔が会社を出た6時半頃はかなり強い雨が降っていた。

帰宅する途中に本屋に立ち寄って春奈に頼まれていた雑誌を買って外に出た所で、

雨で見通しの悪い道路を横断しようとして轢かれそうになった老人を庇って逆に車にはねられてしまった。

はねた車はそのまま信号を無視して逃げ去った。

裕輔はすぐ救急車で病院に搬送されたが、ほとんど即死に近い状態だった為に救急車の中で息を引き取った。

救急車のなかでは必死の救命治療が施されたが、ダメージが大きすぎてとうとう病院までは持たなかった。

老人なんか放っておけば良かったのにと思ったが、正義感の強かった裕輔らしい死に方かも知れない。

電話を聞きながら眼から涙が溢れ、鼻からは鼻血が流れてきた。 しばらくは切れた電話を持ってぼ〜としていた。

確認の為に病院に行かなければいけないと思っても体が思うように動かない。

自然に涙が溢れる。 自分の膝を抱きかかえて不安と孤独に耐えていた。

「ゆ、裕輔ぇ嘘よね。 お願いだから意地悪しないで帰って来てぇ〜!。」

外からドアを叩く音に気が付いてふらふらしながら出て見ると雅昭と夏海が立っていた。

「おとうさ〜ん!。」

「春奈、大丈夫か?。」

父の声を聞いてまた涙が込み上げてきて父の胸に取りすがって泣き崩れた。

「裕輔が死んだなんて信じられないわ!。 うそでしょう!お願いだから嘘だって言ってぇ〜〜!。」

雅昭は肩を震わせて泣いている娘を見てやさしく抱いて髪を撫でた。

「気を確かに持つんだ!情報が混乱して、何かの間違いなのかも知れない。 とりあえず病院に行って見よう。」

「お姉さんしっかりして!。 私もここにいるわよ。」

春奈は2人に抱きかかえられるようにマンションを出て雅昭の車で病院に向かった。

病院に着いて見ると春奈を心配して親友の友華と恵理が来て待っててくれた。

「春奈!しっかりして。 気を確かに持つのよ。」

みんなに支えられて病院の中に入っていく。

警察の人に案内されたがその人は弁護士である雅昭には顔なじみの人物だった。

「朝倉先生どうしてここへ?。」 警官は怪訝そうに聞いて来た。

「野村裕輔君は私の娘婿だ。」

「そうですか。 お嬢さんには誠にご愁傷様でした。」 深々と頭を下げてきた。

案内されて遺体の安置されてる部屋に入ると顔に布のかけてある遺体が横たわっていた。

布を取るとそれは紛れも無く裕輔の遺体だった。 一縷の希望は絶たれた。

春奈は裕輔に取りすがって泣いた。 まるで体中の水分がなくなるように止め処もなく涙が流れる。

心の中で今まで築き上げてきた大切な物が音を立てて崩れて行くような気がした。

「ゆう〜すけぇ〜〜」

泣きながら意識が途切れて行く。 しばらくして気が付くとベットに寝かされて側には夏海が付いていた。

「ここはどこ?。 裕輔はどこに居るの?。」 

「お義兄さんは今行政解剖中よ。 お姉さん、私が付いてるからしっかりしてね。」

「解剖って?まさか裕輔の体を切り刻んでるの!。 夏海ぃ〜!お願いだから止めさせてぇ〜。」

「何言ってるの?仮にもお姉さん看護婦でしょう。 事故の事後処理ぐらいわきまえてるわね。」

夏海の言葉に頷きながら自分の不運を呪った。

教会であれだけ永久の愛を誓ったのに裕輔は結婚して1年もしないうちに永久に春奈の前から姿を消した。

あくる日にお通夜を済ませて次の日に葬儀を行った。 大勢の人が来てくれて裕輔にお別れをしてくれた。

人々は憔悴している春奈を気遣って色々と慰めてくれた。 葬儀が終わって出棺を済ませて火葬場に向かう。

導師の読経の中お棺がボイラーに入れられて点火された。 しばらくして出て来た裕輔のお骨を見て泣き崩れた。

裕輔がこんなになっちゃったのね。」 改めて涙が溢れた。

何も出来なかった春奈に代わってすべては雅昭と裕康の2人が取り仕切ってくれた。

手伝ってくれた人々にお礼を済ませて野村の家に戻った春奈を園子がやさしく慰めてくれて休ませてくれた。

次の日に朝起きようとしても体に力が入らずに布団から起き上がれなかった。

しばらくしたら園子が起しに来た。

「春奈さん元気を出さないとダメよ。 さぁ〜起きて!。」

無理やり起されてお台所に連れて行かれた。

「昨日から何にも食べてないでしょう。 裕輔が死んで悲しいのはわかるけど何か食べないとあなたの体が

持たないわ。 私の作ったお寿司でも食べて元気を出して頂戴!。」

「お義母様、ありがとうございます。 でも、胸が一杯で何にも食べれないんです。」

「それだけあなた達の愛情が深かったのね。 羨ましいわ。 でもね、無理にでも食べないといけないわ。」

本当に春奈の体を心配してくれてる園子のやさしい気持ちがうれしかった。

食べたくなかったが無理に箸をつけて愛情溢れる散らし寿司を口に運んだ。

ほのかに甘い香りがして美味しかった。 食べてると急に胸がむかついて吐き気がする。

春奈は口を抑えて流しの前に行って吐いた。 

胃の中が空になるようなひどい吐き気で先ほど食べたお寿司もすべて吐いた。

そんな春奈を心配して園子が優しく背中をさすってくれた。

「春奈さん大丈夫?お寿司の酢がきつかったのね。 でも、ひどい吐き気ね。 まるで悪阻みたい。

春奈さんあなたまさか!妊娠してるんじゃないの?。」

園子のそんな言葉を聞きながら意識が遠のいて気を失った。

病院に運ばれて極度の心身衰弱と妊娠の為に入院させられた。 妊娠2ヵ月だった。

裕輔は死んだが2人の愛の結晶はしっかりと春奈のお腹の中に宿っている。

しかし、入院しても春奈の体は中々回復しなかった。

食事も悪阻による嘔吐のためにのどを通らない。 夜も寝られずに衰弱していった。

そんな春奈を心配して喫茶店のマスターが好物だったアイスティを使ったフルーツポンチを作ってくれた。

「春奈ちゃん元気を出して。 これだったら食べれるんじゃないかと作って来た。」

「マスターありがとうね。 これだったら食べれるかも。」

マスターがテーブルに置いたフルーツポンチを嬉しそうに手を伸ばして食べた。

久しぶりに食べた好物は冷たくて美味しかった。 食べ終わって満足感に包まれた。

それをきっかけに少しずつ食事も進むようになって徐々に体力を回復していった。

しかし心に負った傷は癒されてはいなかった。 結局病院に3ヶ月入院して退院した。

退院した春奈は裕輔の実家を訪れた。

「春奈さん、やっと落ち着いたみたいね。」

「はい、お義母様。 ご心配をかけて申し訳ありませんでした。 悪阻も収まって安定期に入ったみたいですわ。」

「本当はお父さんも私もあなたはまだ若いから裕輔の事は忘れてもう一度幸せを掴んで欲しかったの。

でも、裕輔の子供を身篭ったって聞いてあなたの思い通りにしてあげようと思うのよ。」

「ありがとうございます。 では私はこの家に置いていただけるのですか?。」

「春奈さんさえよかったらいつまでも居て頂戴。 

それとこれはあなたのお父様から頂いたお手紙よ。 読んで御覧なさい。」

園子はそう言って手文庫から手紙を取り出して春奈の前に置いた。

「父からですか?。 読んでもいいのでしょうか?。」

「いいわよ。」

その父の手紙には切々と娘への想いが綴られていた。

春奈の気持ちを代弁して野村の家に残れるように情理を尽くして訴えていた。

お父さん〜!。」 目から涙が溢れて手紙が読めなかった。 父の気持ちが嬉しかった。

「春奈さんは幸せね。 こんなにもあなたの事を思ってるお父様がいらっしゃるんですもの。

そして私達もあなたの思い通りにしてあげたいわ。 それが裕輔の供養にもなるのよ。

春奈さんにこんなにも愛された裕輔は幸せだったのね。」

姑の園子が自分の部屋に春奈を連れて行って箪笥から茶封筒を取り出して渡した。

「春奈さん、開けて見て。」 堅く膨らんだ茶封筒を開けると中には通帳と印鑑が入っていた。

春奈名義のその通帳を開けると信じられない金額が記入してあった。

思わず自分の目を疑った。<二千万円> 気の遠くなるような金額だった。

「お義母様これは何でしょうか?。」

「それをあなたに貰って欲しいのよ。」

「こんな大金は頂けませんわ。」

「それは私が裕輔に掛けていた保険の保険金よ。 だからあなたが受け取るべきものなの。」

「でも、お義母様が掛けられていたものを尚更私は頂けません。」

「そのお金はこれから生まれてくる子のために使って貰いたいの。

あなたも裕輔と思い出のあるあのマンションを移る気になれないでしょう?。

私も行ってみるけど四六時中と言うわけにはいかないのよ。 信念だけでは赤ちゃんは育てられないの。  

病気をする事もあるし急に熱を出して仕事を休まないといけない時もあるのよ。

体も神経も疲れ果ててあらぬ妄想に悩まされるのよ。 女が1人で子供を育てるのって大変な事よ。

だからその為にそのお金を使って欲しいの。」

「わかりました。 ありがたく頂きます。」

園子は自分の厚意を素直に受けてくれた春奈が愛おしい。 でも、この愛すべき嫁を守る息子はもういない。

息子の代わりは出来ないが出来る限りの助力を春奈に与えようと思っている。

「春奈さん、裕輔が生きていた頃のあのはつらつとした笑顔をもう一度見せて欲しいの。

あなたにはそんな暗い顔は似合わないわ。 裕輔の分まで生き抜いてやって!それが私達の願いよ。」

「お義母様にそんなにも思って頂いて私は幸せですわ。 この子は立派に育てて見せます。 ご安心ください。」

春奈は園子の言葉を聞いて生まれて来るこの子を心の拠り所として生きて行こうと決意した。

そう思ったら一度消えたと思った心の灯火が再び点くのを感じた。

この子に私のすべての愛を与えよう。」 春奈はそう思いながら自分のお腹をさすった。

 

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